2008年05月30日

石原グスク

上里グスクを出て、次は北の伊原(糸満)へ向かった。

上里グスクを左手上に見上げながら、急な坂を下っていく。

途中がらがらのハル道(農道)をとおる。

国道331号線にでる。

国道をまたいで伊原バス停近くのすーじミチにはいって、
しばらくいくと、左側に「石原グスク」の路標がみえる。

コンクリートの階段を上りさらに奥に進むとグスクとなっている。

正面右には、写っていないが石灰岩を利用した拝所のようなものがみえる。




写真の手前左側が天然の石灰岩の壁で、50cmほどの間隔で右側には50cm程度の野面の石垣がつまれている。
それが5~6メートルつづいてグスクにはいる小道のようになっている。

しかしそのあとは低くなっており、石垣であったと思われる石が散乱して、

しかも薄暗いので、素人では現状がわからない。

古揺「おもろ」にも謡われたグスクだと聞いた記憶があるが、

それほどのグスクであったなどとはもはや実感できない。




糸満に限ったことではないのだけれども、

今回「国吉グスク」あたりから、集落内をとおると、
小さな家が建っており中に位牌だけがあるという、屋敷を見かける。

これは先の大戦で一家全滅した家族達の屋敷であることがおおいという。

また、上里グスクからすぐはなれたところには、「陸軍病院之塔」がある。

今回の「石原グスク」のほとんどとなりには、「琉風の碑」がある。

戦前の沖縄気象台職員の慰霊碑だ。

ということで、遺跡めぐりをしているつもりでも、
実は戦跡とも隣り合わせなのだ。

どうしても先の大戦を意識せざるえなくなる。

当初、遺跡を探索しながら思うことは、
発掘調査を徹底して復元できたら素晴らしいのに、
などと考えているのだが、
戦跡をとなりあわせにまわっていると、
遺跡を復元するより、そっとしていたほうがいいのかもしれないと思えてくる。










  

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2008年05月29日

上里グスク

国吉グスクをでて、次はどこに行こうかと迷いながら、
さらに南に向かった。

ハル道をぬけて真栄里に出た。

老人福祉施設跡に真栄里グスクがあるのは知っていたが、

そこはすどおりして、名城に向かった。

名城にはフェンサグスクがあるがそこはちら見した。

名城ビーチ入り口を横切り喜屋武入り口にでた。

そこから具志川城跡によろうかと思ったが、

やっぱりはじめからひそかに考えていた上里グスクに向かう。

そこも5年ぶりであろうか。

さらにうっそうとなったような気がする。

道をへだてて上里集落のやや後方にある。



うっそうとしたなかにはいると、どこからが城内になるのか区別がわからないのだが、

拝所跡のような石組が目に飛び込んだ。

国吉グスクでもそうだが、足元には雑草や石がごろごろしているので、

ハブが怖い。

おまけに蚊だ。

本来なら冬に散策するのがよいのであろう。



うっそうと樹木がグスクを覆いつくしているので、
グスクの形状がわからない。
しかし、じっくりみまわしてみると、
石垣がしっかり残っている部分がある。





入り口からまっすぐグスク内を突っ切ると、
断崖にいきつく。眼下には福地、伊原集落が望める。
そこが築城に利にかなった場所だと納得できるのである。  

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2008年05月29日

国吉グスク

照屋グスクからそのまま、国吉グスクへ向かう。

国吉グスクは国吉集落の後方の小高い丘にある。

ウシーミーから時間がたっていないので、入り口から点在する拝所につづく
道は草が刈られているのだが、
グスク本体にはいるところはうっそうと雑草が茂っていて、
当初はまよった。



石畳風の坂をすこしのぼり、
右にまがる。


案内板にあったこぐち(入り口)だとおもわれる。

こぐちをはいったあたりが、二の郭らしいのだが、
あたりはうっそうとしている。





二の郭から見上げた右手は数メートルの段差があって、
そこは石垣がきちんと残っているのがわかる。

物見台的な役割らしい。

石垣をアップした。

二の郭の左手には「物見台」よりやや低いが一の郭らしい平坦地がある。

そこへあがる石積みはほとんど壊れていると思われる。

亜熱帯の樹木の生長に負けたのか、あるいは先の大戦で破壊が著しいのか、
素人では城郭の全貌はわかりにくい。

樹木がなければ、位置関係からいって、
南山グスク、照屋グスク、真栄里グスク、真壁グスクが見渡せるであろうことは、
想像できる。





  

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2008年05月29日

照屋グスク

先日、カッチンジョウシにいったので、
南部糸満のグスク周りをおもいたった。
南部には規模は世界遺産のグスクとくらべてマイナーだが、
王府時代以前をしのばせるグスクが数多くある。

まずはということで5~6年前にいって以来のグスクに速攻いってきた。



県道7号線を南下して、途中右折して糸満照屋へ向かう。

その途中には、豊見城平良グスク、糸満武富グスク、豊見城ビングスク、
糸満アハゴングスク、南山グスクによれる。

欲張ってもしょうがない。

まずは「照屋グスク」に直行。

正面階段が、南山グスクを連想させるが、規模はそれほど大きくはない。




中の広場にはうがんじゅと按司墓がならんでいる。

背後はがけになっていて、そこには報得川がながれている。

「唐船グムイ」とかよばれていたともう。

交易船の船着場があったと聞く。  

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2008年05月27日

勝連城跡

中部方面に所要があったので、ついでにひさびさに勝連城跡にいってきた。

世界遺産に指定される前から整備が進んでいたのだが、

行きやすく、立派になった。

ここのすぐ近くに友人がいたので、

だいぶ前の荒れ放題の頃から時々行っていた。

城に登る石畳はいまは木造の階段が設置されているが、

整備前は石畳が荒れていたので上るのも、「イチハアハア」した記憶である。

荒れ放題の頃が、古き時代の豪族達が競いあうように

海をわたり交易をしていた頃のイメージがかきたてられたような気がする。






↓三の郭から、二の郭、一の郭をみあげる。




↓一の郭のから二の郭、三の郭をみおろす。


一の郭から360度周囲をみわたすことができる。

まさに絶景。

南の中城方面にはうっすらとではあるが、

たぶんもうひとつの世界遺産・中城城跡も遠望できる。

ここは入場料のいらない、まさにすばらしい文化財である。

しかし、この時期で「汗だらだら」だから、

真夏の見学は・・・・

恐ろしい・・・暑さに違いない。  

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2007年01月26日

ムチとムーチー



「漫湖」周辺からの通勤は終わったが、通過はする。

きのうからは朝6時に家を出て、浦添バイパスを通るルートである。

漫湖周辺とくらべ特段情緒のあるルートというわけではない。

まだ暗い中にバイクに乗り、寒風にあたり目から涙が出てきて、それが干からびて、

「タッキー似がどした?」などと思いながら、

米領事館近くの交叉点近くに指しかかった。

サンニンの香りがする!

「そうか! きょうはムーチーか」

などどと、一瞬妙に感慨にふけり、

すこしはこころがなごんだ「タッキー似」の瓦屋根であった。

きょうの現場はきのうと同じ「いま かえる ひとし」(今帰仁)

だと思いこんでいたのだが、

おなじやんばるでも、名護だという。

写真の現場がそうである。

瓦屋根はもとは木造建築から発達したものであった。

それが、ここ沖縄では最近は「巨大」建築〈コンクリート)にも頻繁に使われている。

特段、木造建築における役割を、瓦が負っているわけではない。

「伝統建築文化」の拝借といえばいいだろうか。

うんちくをいってもしょうがないのであるが、

あるいみ、新しい「漆喰瓦屋根のある風景」であるといってもいいのであろう。

瓦屋根が相手にしていた世界とはだいぶ異なるが、

じつは職人全体が扱う世界としては、皮肉にも同じなのである。

あ!、タイトルですか?

漆喰は方言で「ムチ」というのである。

はは、ただの語呂あわせの、「タッキー」にーにーのジョークでした。

「タッキー似」はひそかにイルジルーで、今日のかんかんでりで

また日焼けした、ノデアル。

ココはオキナワ・・・


だから・・・なに?


ごめ~ん わらってきいてやって~~  

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2006年10月16日

土からの教育

『宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み』(西岡常一:日本経済新聞社)を読んだ。

今は亡き法隆寺最後の宮大工棟梁・西岡常一さん自身の語り口風の自伝と、
周囲の方々の回想録である。

西岡棟梁については、さまざまな本が出ているし、
ネットでも業績や語録・逸話はかなり紹介されているので、
興味のある方はそれらを参考にしていただきたい。

西岡棟梁は祖父から法隆寺の棟梁となるべく、
幼い頃から現場へつれていかれ、厳しく育てられたという。

小学校卒業後の進路では、父や本人は工業学校へ行くべきだと考えていたのだが、
祖父はそれとは反対に農学校へ行くことを強く勧めるのである。

祖父の主張はこうであったという

「人間も木や草も、みんな土から育つんや。
宮大工はまず土のことを学んで、土をよく知らんといかん。
土を知ってはじめて、そこから育った木のことがわかるんや」。


しぶしぶ通った農学校であったが、実習を経験することで興味がわいてきて
無事に卒業するのだが、そのときの経験が、のちに寺院遺跡の発掘や、
日本では取れなくなったひのきの巨木を台湾まで行って
見極めるのに、役に立ったという。


そこの農学校の校長がまたたいしたひとであったらしく、
修身(いまでいう道徳でいいのかな?)の時間では、

「君達は、農業経済学というものを習うているやろ。
そこには、『最小の労力をもって、最大の結果を得る』それが、
原則や、と書いてある。」

しかし、とつづけ
「我々、日本の“農人”はそうであってはならない、
自分一人の働きで、何人の人を養えるか。これが根本や」

と、いわれ、農の基本は金儲けや効率ではないと教えられるのである。

そして、「試験には、こういうことを書くな。零点になるから」

背骨をいれられたと、感じ入ったという。

祖父や農学校の校長から、いまでは忘れ去られた明治人の気骨=こころ=魂

を学んだのであろうか。

いや、それ以前に古代から日本人が持っていたこころなのかもしれない。  

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2006年10月15日

「職人」気質

『職人』という本(永六輔著:岩波新書)をみつけた。

おもわず、にやりとしたり、したいひゃー、と相槌を打ちたくなる

名もない職人達の言葉に脱帽・・・


「職人気質(かたぎ)という言葉はありますが、

芸術家気質というのはありません。

あるとすれば、芸術家気取りです。」


「おい、若ェの!

何もできなくっていいから、せめて、元気のいい返事ができねェか」


「樹齢二百年の木を使ったら、

二百年は使える仕事をしなきゃ。

木に失礼ですから」


「職業に貴賎はないと思うけど、

生き方には貴賎がありますねェ」


「人間、<出世したか><しないか>ではありません。

<いやしいか><いやしくないか>ですね」


「百姓ってのは、百種類の作物をつくれる職人ってことなんだってさ」


「コラッ! あんまり勉強するとバカになっちゃうぞ」


勉強しなくても馬鹿もいるけど・・・

  

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2006年10月14日

かつての普通の上等・・・赤瓦・・・

「瓦」が日本で始めて用いられたのは、寺院建築からだという。

1300年以上前である。

仏教の経典、仏像、塔を守るため、大陸から先進の建築技術が導入されたという。

当時の工人たちのすごいところは、そのまま技術を受け入れるのではなく、

雨の多い日本の風土に合わせ、建物の軒を深くして、湿気から建物を守る工夫をしていたことである。

そのために、世界遺産「法隆寺」(1300年以上前の木造建築)を始めとした、

世界にもまれな数々の木造建築が残されてきた。

そのなかで、「瓦」が風雨から直接建物を守るという大きな役割を果たしたのはいうまでもない。

鑑真が建立したという奈良の「唐招提寺」の金堂は今大改修中である。

驚いたのは、創建時(1300年前)の瓦がまだ残っているということである。

残念ながら、沖縄にはそのような建築物はない。

戦前、首里城を始めたとした当時の国宝に指定されていた数ある建築物は

先の大戦ですべて灰燼に帰した。

柳宗悦が世界にも誇れると絶賛した首里・那覇の赤瓦住宅の建ち並ぶ風景も消滅した。

それ以外の地域でも赤瓦屋をはじめとした民家は相当な数が破壊されたという。

だから、当然のことながら、沖縄で六十年以上前つまり終戦前の建築物が残っているのは

大変珍しいケースとなる。


一般庶民が赤瓦を使えるようになったのが120年くらい前だから、

当時うちなーんちゅがかーらやーを作りたいと思うのは、

那覇や首里士族が住んでいた、よりいい家、頑丈な家に住みたいという憧れのような、

世俗的なところがあったともいえる。

いまコンクリヤーがおおはやりなのと、実は大きく変わっていないかもしれない。

それが結果的に、とりたてて木造赤瓦屋根住宅を大事にするわけでもなし、

また手放しで賞賛しないというところにもでてくる。


そしてまだまだ使えるかーらやーでも、

コンクリヤーに建てかえる事をあまりためらわない。


少数ではあるがこだわりのある人、

経済的に建てかえることのできない人、

こだわりもないけどただ建てかえる気がない人、

達の妙なミスマッチのおかげで、

一般のかーらやーは生き延びている。

これは意外に思う方もいるかもしれないが、ほんとうである。



極端な話でまたおおざっぱだが、うちなーんちゅは物の永遠性にこだわらないのだとおもう。

日本本土では、先に述べた世界最古の世界遺産である寺院木造建築群が大事に残されているのに、

沖縄では世界遺産である聖域「斎場御獄」は、

人工物は石畳と賽銭箱よりも小さい香炉以外なにもない。

古い集落に数あるウタキやウガンジュなども、ちょっとした小祠があるくらいで、

ましてや小祠さえもないところも多いのである。

それが大事に守られた聖域なのである。

岡本太郎はそれに大変驚いたらしいが、しかし古代日本人の精神性にふれた思いがし

感動したとどこかで述べている…。(ちょっとあやしくなるので深くは突っ込みません)


だから、なんだって?

という声が聞こえてきそうですが、

どんまい、どんまい。

↑ 全々意味不明…


  

Posted by 瓦屋根 at 11:56Comments(4)TrackBack(0)文化

2006年10月03日

「屋号」本題

だあ?なんだったっけ?

そうそう、屋号についてである。

あたりまえの話だが屋号は沖縄独特のものではない。

ここでは日本の古くからの慣習がまだ色濃く残っているのである。

那覇などの都会ではあまり聞かれなくなったが、那覇から少し離れた地域では、

世間話をする際まだまだ屋号が普通に使われている。

「どこぞのだれそれ」を、たとえば「ウフヤーの次男ぬー(大屋の次男)」というのである。


「ウフヤー(大屋)」と呼ばれる屋号ははたいていの場合、その集落のむーとぅやー(宗家)である。

また「ヌンドゥンチ」は、代々その集落のノロを出す家柄の屋号である。


分家であれば本家の屋号に「ミー(新)」や「グァー(小)」がついたりする。

たとえば、「ミー〇〇」、「〇〇グァ-」などである。


家の位置関係や方角でつけられるものもある。

目当てとなる屋号に「クシ(後)」「ハタ(端)」「アガリ(東)」「イリ(西)」などがあてられる。

「クシヌ〇〇」「アガリヌ〇〇」などである。


職業からつけられるものもある「サカヤ(酒屋)」とか「ウミンチュヤー」などがそうらしい。



「カンゼーヤ-」


ところで私が粟国島でお世話になったかーら屋ーの屋号は、「カンゼーヤー」と呼ばれていた。

屋号について少し詳しい人がいたなら、ピンと来たかもしれない。

各集落には古くから必ずといっていいほど「鍛冶屋」がいるのだが、

その屋号はたいてい「カンジャーヤー」と呼ばれている。

だから「カンゼーヤー」ときいて、「カンジャーヤー」がなまったものだと思った方もいるだろう。

実際私もそう思った。

ところが、違うのである。

ここにはちゃんと「カンジャーヤー」が別に存在するのである。

だから、「カンゼーヤー」が「鍛冶屋」から名づけられたということではないらしいのである。

家主さんたちは自分たちの屋号の由来はわからないといっていた。

周囲のしまんちゅもしらないらしい。

勝手な想像だが「鍛冶」ではなくて、「金細工」=「カンゼーク」がなまったものだろうか?

だったら「カンゼークヤー」になるだろうし・・・

どなたかおわかりの方、ヒントになることでもありましたら知らせていただけませんか?  

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2006年09月27日

開運漆喰!?

昨日久々に、ムチ(漆喰)メーカーのY漆喰を訪れた。

漆喰を少し改良したのだが、感想を聞かせて欲しいという。

見て、触って、嗅いで、そして鏝(こて)で練ってみた。

まとわりつかず鏝離れもよい。

うん、なかなか上等である.

早く使ってみたいのだが、その前に営業!営業!

ところで、今日朝起きたら珍しく肩こりしている。

普段は腰なのだが、はてどうしてかな?と考えたら、思い当たった。

昨日Y漆喰にいる間に、那覇大綱曳きに使われたわら(綱)がトラック一杯に運ばれてきた。

今、綱は作成途中で、交換する部分を引き取ってきたらしい。

わら(=綱)は漆喰の大事な材料である。

それをトラックから引き降ろすのを少しおせっかい半分で手伝った。

たいした作業でもないのに、こったようだ。       としだな(ボソッ)がーん


那覇大綱曳きの綱は、勝負が終わると、引いた人達が縁起担ぎのために持って帰る。

今回Y漆喰が引き取った綱はあのギネス記録のでかい本体から解体したものだから、

一般の人がもって帰れない部分である。

このわらで作られた漆喰が使われたカーラ屋ーは、開運向上間違いなし!

なんちゃって。

Y漆喰のAさん、ホームページ早く立ち上げるようにがんばりましょね!  

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2006年02月16日

赤瓦と漆喰と沖縄の風土

沖縄で最初に使われた瓦は、本土と同じような黒色系の瓦だったようです。

ではなぜ素焼きの赤瓦になったのか?

低温で焼きやすい、従って経済的という理由があります。

しかしここでは、風土の面から述べます。

沖縄では、代々受け継いだ家屋を強烈な台風から守るためには、漆喰瓦屋根が重要な役割を果たしました。

屋根に瓦をのせて荷重をかけ、その瓦を漆喰でつなぎ抑えつけることによって、家屋全体を強固にしていました。

本土の黒色系の瓦の品質で問題になるのは、瓦の吸水性だそうです。

瓦が素焼きのように水を吸いやすいと、冬の零度以下になる時期に、瓦に吸収された水分が凍結して瓦が割れることがあるそうです。それで、本土の瓦は吸水しにくい黒色系の瓦が主になるのだそうです。

しかしこうなると、黒色系の瓦は吸水しにくいため漆喰を塗り付けるのが難しくなってしまいます。

黒色系の瓦は漆喰がつきにくいのです。

本土の瓦をよく知ってるある建築業者さんが、「沖縄の瓦は水を吸いやすく、また漆喰を屋根に使っているからだめだ」というのを、聞いたことがあります。

それは、本土からみた視点であり、大きな誤解です。たしかに漆喰も吸水性が高いので本土では瓦屋根には使いづらいです。

しかし、ここ沖縄では時により2~3日も居座る猛烈な台風をしのぐには、漆喰で瓦を固定しないと屋根がもたないという、現実的問題があったのです。沖縄では冬でも水は凍りません。したがって凍結で瓦が割れたり、漆喰が劣化することはありません。

その漆喰が瓦にくっつきなじみやすいのが、素焼きの赤瓦だったのです。

私だって、特別に「赤瓦ばんざい!」という立場ではありません。黒色系の瓦のほうが耐久性は優れていますから。

ただ、漆喰塗りの赤瓦屋根が沖縄で発展したのは、特有の風土のもとそこにすむ人々の知恵の結集であることを理解してほしいのです。  

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2006年02月12日

不思議な墓

那覇市


那覇市内のある丘陵地にあるお墓です。

拝所がある公園と隣り合わせにある、亀甲墓です。

たまたま通りすがると、なにか不思議な印象を受けたのでしばらく眺めていました。

亀甲墓といえば琉球石灰岩の切石積みですが、まあ普通のうちなーちゅでもそう思っていることでしょう。

ところが、このお墓の石組みは、よくみると石灰岩を積んでいるのではなくて、掘り込んでいるんですね。
囲いの石やヒンプン、そして中庭の地面の石灰岩はつながっているんです。
つまり岩盤がひとつで、どうかんがえても掘り込んでいるとしか考えられないです。

あんまりじろじろ見るのも気がひけて本体の甲の部分は遠くからしかみませんでしたが、
そこも石を積んでいるのではなく同じ石灰岩がつながっているようでした。

作られたのはいつの時代かわかりませんが、現代でないのは確かです。

道具が限られているはずなので、どうして作ったのかは不思議ですね。

石工さんか墓造りにかかわっている方がいらっしゃいましたらご教示いただけるといいのですが。  

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2006年02月06日

拝所(うがんじゅ)

沖縄市


漆喰瓦屋根のある集落・地域は、畑や山林原野をつぶしたり、海岸を埋めたてた新興住宅地などではありません。

古くからある集落・地域ですが、簡単に言えば公民館がある地域です。
そのような地域には必ずといっていいほど、聖域としての拝所(うがんじゅ)がいくつかあります。

昼の休憩時間や地域散策(営業)で見かけると訪れるのですが、どの地域のうがんじゅも厳かで不思議な空気が漂っています。

聖地・聖域であるうがんじゅは、寺社と違って人工的な装飾や建造物はあっても、あまり目立たないように配置されていて、たいていは老木と小さな祠や香炉があることが多いです。

しかし、質素で素朴な空間であるにもかかわらず、それぞれのうがんじゅはすべて異なった独特の雰囲気を持っているのです。

ここもそうです。

この写真のうがんじゅはたしかビジュル(霊石)が安置されていたと思いますが・・・
ネットで調べてもわかりませんでした。
いや~、とちりました。入り口に表示があったのに・・・
わかれば改めて書き込みます。


この写真をみてどこのうがんじゅかあてるかたは、なかなかの「うがんじゅ探検隊」だと思います。  

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2006年02月01日

本葺瓦と柳宗悦

漆喰シーサー(旧東風平町)              

漆喰シーサー(那覇市)

柳宗悦は左官職人が作るシーサーにも祈りと美を感じ取り、さらにできばえの素晴らしいものには畏敬の念さえ持っていたようです。


「本葺瓦」と「柳宗悦(やなぎむねよし)」ってどういう関係があるんですか?

と、速攻で質問がきそうですが、まあせっかちにならないで、

すこしつきあって読んでください。  
続きを読む

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2006年01月30日

漆喰の不思議



漆喰は、石灰が主成分ですので、基本的な色は白色です。

でも、沖縄の漆喰は稲わらが混ぜ込まれているため、その色素が染み出して少し黄色っぽいです。

塗り立ての漆喰はやや黄色の強いクリーム色をしていますが時間の経過とともに徐々に

稲わらの黄色は抑えられ、石灰の白色に変わり、数ヶ月後には白色に落ち着きます。

不思議なことにこの塗り立ての黄色は、季節や天気、温度や湿度によって微妙に色合いが

異なります。また、骨材として混ぜ合わせる砂や、少量のセメントによっても変わってきます。

なんと製造するメーカーごと、また同じメーカーでも袋詰した袋ごとにも微妙に色合いが異なるのです。

この色合いの違いは恐らくわらからくるのしょうが、

ただそれだけともいいきれないのが、漆喰の不思議なところです。

メーカーが漆喰を製造するときの条件(わらの状態、季節、天候、寝かせる時間等)、

そして職人が調合して塗りつけるときの条件が複雑に絡み合うことによって、

微妙な色合いの違いを見せてくれるのです。

自然のなせるわざなのですが、漆喰の強度には影響はありません。

家主さんによっては、微妙な色の違いを気にする方もいらっしゃいますが、

最終的には白色に落ち着くので、私は「季節の変化とともに自然な色の変化を味わいませんか?」といっています。

写真では漆喰の柔らかな質感や、微妙な色合いをなかなか伝えきれませんが、

少しでも今の文章で漆喰の色の不思議がわかっていただければうれしいです。  

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2005年12月18日

赤瓦の嘆き

 本業の話をしなさい! と、お叱りを受けそうなので、瓦の話を少しします。まずは赤瓦の島瓦のことから。

となるとですね、私はため息が先に出てしまいます。もちろん今でも島瓦は新しく焼かれて使われています。

私がこだわっているのは最近の新しい島瓦ではありません。

20~30年以上前に作られたの手作りの島瓦です。

 今の瓦製造は機械化が進み形が均一化されています。確かに葺きやすく見た目もきれいで、漆喰を塗りつけてもきれいに塗りあがるのですが、あまりにそろいすぎて、のっぺらぼうなきらいがあります。

 手作り時代の瓦は、形がやや不ぞろいですが、それが意外に味わいのあるかわら屋根の表情を作り出しているのです。バランスの悪い瓦をそろうように葺きあげ、そこにまた漆喰で調整仕上げていく造形美があると思うのです。

その手作り時代の瓦は、建替えで取り壊されたりで激減しています。さらに悲しいことに、きれいになるからとか、あるいは雨漏りがするからといって、塗装をすることです。

 みなさんはそれ自体歴史がありおおげさですが骨董的価値がある焼き物(瓦)に塗装したりしますか?
家主さんの好みならし方がありません。
雨漏りの場合も、原因があり屋根(小屋)裏から確認して修繕できる場合が多いです。

瓦は風化劣化しなければリサイクルできる建材です。昔といっても数十年前まではそのように使われていました。

いまでも赤瓦屋を取り壊すときは、取り残す方もいるようですが、そのまえに塗装されており使い物にならなくなっています。

 本土の寺社などの歴史的建造物の瓦で千年以上前に作られた瓦があるそうです。赤瓦は素焼きなので本土の黒色系の瓦と比較してそこまでの耐久性はないですが、それでも長生きさせたいじゃないですか。

それが、残念で寂しいことにどんどん失われているのです。  

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